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表面的ではなく、「移住」問題の本質についての議論を
藤崎康夫(ニッケイ新聞東京支社長)

海外移住史の重要性
 1990年6月、改定入管法が施行され、就労目的の日系人の入国に門戸が開かれた。一方、不法就労者に対しては締め付けが強化されたといわれる。
 当時、日本は、単純労働に従事する労働者の極度な不足で、中小企業は倒産の危機に追込まれていた。外国人労働者の就労で、中小企業はかろうじて支えられていたのである。
 マスコミをはじめ各界での入管法改定をめぐる議論は、就労問題だけに集中していた。私は“なぜ、この機に日本人の海外移住や日系人について語り合わないのか”と、思っていた。
 入管法改定が、衆議院本会議で成立する3日前の1989年12月5日であった。ホテル・ニューオータニ東京で「中南米大使会議」が開催された。中南米に関係の深い国会議員と中南米各国に駐在する日本大使が集まった。その席上で、入管法の改定について、外務省中南米局の局長は「将来の日本と中南米諸国の文化交流や両国の架け橋という認識で、日系人の受け入れを議論してきた」と説明した。その日のことは今もはっきりと覚えている。
 日本は過去、アジア有数の移民送出国でありハワイ、北米、中南米、アジア、オーストラリアに移民を送り出してきた。彼らが日本国に果たした役割は大きい。しかし、日本は、彼らの移住や日系人について語ることは、あまりに少なかった。
 第二次世界大戦では、連合国側の国々に住む日本人移住者とその子孫は、敵性国民としてさまざまな困難に見舞われたが、戦後はいち早く、敗戦で荒廃した母国・日本の救済や復興に力を注いだ。
 人間は、自らの歴史を知ることは重要なことである。日本人の海外移住史を学ぶことで、自国を知り、移住者や日系人についての考えを深めることができる。
 最近だが、中学歴史教科書に日本の海外移住について記載することを望む声は強まり、これまでより詳しく移住について記した歴史教科書も出版された。
 移住者、日系人と力を合わせ、その歴史を深く見つめ直し、真の交流のあり方を追求していきたい。

学校教育の多様化
 以前、私は「夜間中学」(現在、全国に35校)の教師であった。この学校は、生徒の年齢は10代から60、70代とさまざまだが、入学理由もさまざまである。そのひとつが、彼ら海外育ちの帰国者や外国人が通える学校がないことだった。
 一例だが、ある生徒は韓国の大学を中途退学し帰国してきたが、日本語が出来ないため、日本語や日本の歴史や地理を学ぶ学校が見つからず、夜間中学に入学してきた。
 中学生以降の年齢になると、日本の学校に入学することは、非常に困難になる。昼間働き、夜間で学ぶことを望むが、その場がない。
 生涯を左右する教育である。日本在住の外国人数も上昇する今、その人々に適する「教育の場」が必要なことは確かだ。その体制づくりも急がなければならない。
 大泉町(群馬県)は、住民の16%近くが外国籍者で、全国でその比率が最も高い自治体のひとつである。
 同町は「安心して働ける環境をつくることから、真の国際交流が生まれる」という理念のもとに日系人を誘致してきた。改定入管法が施行された1990年には小学校4校中、3校に日本語教室を開き、翌年には公立小中学校全7校に同教室を設けた。
 同町の教育長は、「この施策は、日本の自治体の中で一番進んでいるのではないか、と自負しています」と語る。また「児童の中には、母国語を学ぶことを望みながら、学費が高いため、日本の公立学校へ通い、日本語を無理に学ばされているという一面もあります」と問題点を指摘する。ブラジル児童の場合、半数近くが、同町にある二つのポルトガル語学校に通っている、と現状を語る。
 その一つ「日伯学園」の男子生徒は、「思い切り身体を動かせる運動場と理科の実験室が欲しい」と訴える。もう一校の「レベッカ・ティーチング・スクール」では、倉庫を改造した校舎の廊下に、生徒の習字や生花が展示され、日本語や英語も教えている。理事長は、「日本は、私たちの学校を一企業としてしか認めてくれません」と、語る。
 子どもの将来、そして真の交流を生むには、日本は学校に在籍する児童・生徒の多様性を認め、それを支援する体制が不可欠であるはずだ。

 

ふじさき・やすお/1936年生まれ。熊本大学卒。ニッケイ新聞東京支社長(本社:サンパウロ)。著書に『移民史』(3)、『絵画写真で見る日本人移民』(4巻、編著)、『サントス第14埠頭』など。


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