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教育について思うこと

松本雅美(ムンド・デ・アレグリア学校理事長

 

 

 教育は人間の権利であり、生きていくためのバイブルです。
 私の家は裕福ではなかったのですが、親は十分な教育を授けてくれました。母はいつも「お金で買えるものはいつか無くなったり盗られたりするけれど、頭にいれたものは誰にも盗られはしないし、それは人生の糧となる」といって勉強を奨励しました。
 中学生の時に外国語でコミュニケーションする面白さを知り、それから英語やスペイン語を一生懸命勉強しました。南山大学外国語学部イスパニア学科を卒業後、1991年2月、浜松市のスズキ(株)人事部採用課で日系人の担当になりました。これがペルーの人たちとの関わりのきっかけです。
 日系人の日本での就労に門戸を開いた1990年の入管法の改正のころは、子どもを連れて来日する人は少なかったのですが、その後数年すると、子どもを呼び寄せる人が増えてきました。そして、小学校の入学時期を迎え、母国に子どもを返すか日本に残して日本の小学校へ通わせるかという選択に迫られます。
 前者の場合は家族の愛情ある結びつきが希薄になり、後者の場合は日本語の問題が生じます。まだ母語も確立しないうちから日本語という外国語で勉強することは想像以上に大変なことです。実際、母語も日本語も話し言葉はある程度出来るが、読めない、書けないといったダブルリミテッドの子どもたちが増えています。母語で勉強する機会もありません。
 しかし、現実的には仕事のために来日する親たちの中には、子どもの教育に消極的な人もいます。スズキ(株)を退職後、外国人フォーラム等に参加するうちに、何人かの知り合いのペルー人に「学校を開いてほしい」と頼まれたのが、ムンド・デ・アレグリア学校を開くきっかけでした。
 私は教員免許を取得していますし、家庭教師をやっていた経験もありますので、教育という仕事にそれほど距離感を感じませんでした。それですぐ行動に移り、ペルー人の友人に協力をもとめ2003年2月に学校が設立しました。といっても問題は山積みでした。
 まず、授業料の問題。最低で50人の子どもが在籍しなければ学校を維持できない計算でしたが、当初は13人しか入学しませんでした。授業料がネックになり、子どもを入学させたくてもそれができない家庭が多かったのです。行政からの経済的支援もなく、経営は逼迫し、毎月赤字が続いて、自己資金でやりくりを続けました。しかしそれには限界があり、やはり公的援助を頂かないと破綻は目前でした。援助を受けるためにはまず学校としてのオフィシャルな認可を取らなければなりません。しかし、規定では認可の申請の前提として「自前の校舎」という項目がありました(本校は今でも借家です)。このハードルをクリアすることは不可能に思えましたが、文部科学省や、静岡県庁、浜松市へと何度も何度も足を運んで交渉しました。それと同時に、私たちはNPO法人の認可申請も進めました。学校として認可してもらうのに、営利を目的とした団体では、ふさわしくないからです。
 2004年4月、内閣府よりNPO法人として認可され、その後、浜松市役所のご支援により静岡県が認可基準を緩和し、2004年12月には南米系では初の各種学校として認可、2005年8月におかげさまで学校法人格を取得しました。
 ただし、浜松市からの助成金は年間145万円。県からの援助は今のところ未定です。これでは月謝を下げる手助けにはならず、月謝が払えなくて学校を去っていった子どもたちも戻ってきませんでした。私の資金も底をつき、絶望的な状態に落ち込んでいたときに、地元産業界からのご支援が届いたのです。これによって月謝を下げることができ、生徒も増えました。しかしながら、産業界の支援を永続的に期待できるわけではありません。
 労働力として受け入れることを決めたのであれば、国や地方自治体は、その労働力を提供する人たちの生活を保障しなければいけないと思います。なかでも教育は最も大切な課題です。行政によって勉強する機会を与えられない子どもたちが、日本のことを好きになってくれるでしょうか? 日本の社会で「よき市民」になろうと思うでしょうか? 母語も日本語も中途半端な子どもをこれ以上増やして、それで先進国日本と言えるのでしょうか? 子どもたちが自分の将来に夢を持つことができ、自分に自信が持てる人間に育つことができるよう、一人でも多くの方々のご理解が必要です。私たちは、日本人と外国人が共生できる社会を目指しています。

 

まつもと・まさみ/


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